そんな人に私はなりたい。「吾日に吾が身を三省す。」by孔子「論語」

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こんばんは。水曜担当しもじです。

最近、週1更新がやっとこさっとこで…。
もう少し、余裕を持って更新できる心を持って行きたいなぁと思っております。
それとも、あれかしら。
あの時間があると余計に作業効率が下がるってやつかもしれません。
そんなことないって思っているのは本人だけで、傍から見たら「お前、もっと仕事しろよ」と思われているのやも…。



【集中力を維持できるMAXの時間は?―「1時間以内」が36.4%と最多】
30分持つかな?
小学校の45分も怪しかった。
高校の65分も記憶にない。
大学の90分は何個かのセクションに分かれそうだ。

学生時代ですら、そんな有様だったので、社会人になった今では…。

何にせよ、帯を締め直して行こうと気合だけは十分です。

さて、最近の気になることといえば、テレビ(メディア)の情報の在り方ですかね。
テレビって何気なく見てしまうんですが、メディア(媒体)と言われるだけあって、何かがそこに介しているんですよね。
それは、制作者サイドの思惑かもしれないし、テレビであれば撮られる側の主張かもしれない。はたまた、見る側の知識や思想によってもいくらでも内容が変わっていってしまう。
そんなわけで、テレビの情報を鵜呑みにするのはもったいないし、それだけで物事を結論付けてしまうと危険かもしれません。

真実は一つとはよく言うけれど、一つの真実を在りのままに見ることができるのは(完全なる傍観者としてのは)神しかいないんじゃないかしら。
人には本能も理性もあるので、真実だって見る人によって変わってしまうんじゃないかな?って。

真実を追いかけるコナンくんも金田一少年も大変だね。
そうそう。
4月から、謎解きアワーとしてコナンと金田一少年が連続で放映されるらしいですよ。
4月の土曜日が楽しみですね!

当時、中学生だったワタクシはコナンと金田一少年のアニメを一生懸命見ておりました。
懐かしさでいっぱいです。
そのころは、親元にいたので、親がいることを当たり前と思っていましたが、大学進学を契機に一人暮らしを始めて、親がいないことが当たり前になると親の凄さっていうのがよくわかるようになりました。

特に感じたのは経済面の部分ですね。
バイトとか働いてとかして、自分なりには精一杯やっているつもりでもなかなかお金ってたまらないんです。
自分の両親を見ていると、何かを節約しているようにも見えないのに子どもを育てあげている。
凄いなぁって。

母親の何がスゴイって、やっぱり子供を産んで成人まで育てて、成人をとうに過ぎた子供に対しても「親」をしているってことだと思います。
素直で可愛い子どもならまだしも、それが自分のようなひねくれ者で…と考えると、本当に尊敬に値します。

子育てをやってのけたっていうのも、スゴイと思います。

両親も齢65を超えて、高齢者の仲間入りです。
まだまだ現役の二人ですが、それでも帰るたびに老いを感じ、そのたびに寂しく感じます。いつかきっとくるその日、わかってはいても耐えられないだろうなと。

中国の方は、親族(血族)を大切にすることで有名ですが、彼らも日本と同じく多くの高齢者を抱える国となりつつあるようです。


世界が高齢化になっている…というよりは、大国の高齢化が世界に大きな影響を及ぼすということかしら。
中国の場合、一人っ子政策を取りやめたら高齢者の割合は大きく下がりそうだけどな。
そうなると、日本だと三人子政策とかが必要になるのかな。
それはそれで、いろいろと問題をはらみすぎていて実行できないんだろうけど。

その中国が発明したものは、古代中国の四大発明として知られている。
一つは、航海をする際に欠かせない羅針盤。
一つは、戦争に欠かせない火薬。
一つは、記録をするのに欠かせない紙。
一つは、同じものを複数作る技術である印刷。

記録と言えば、デジタル化によって写真を使っての記録もずいぶんしやすくなりました。
データで保存できるっていうのが一番の原因でしょう。

【レストランで料理を撮ることどう思う?】
仕事柄、取材先(特にロケ先)だと写真を撮らせていただくことが多いので、耳の痛い意見も多いです。
でも、プライベートだと写真を嫌がる人や店舗もいるよーというのを聞くようになったので、本当に撮影したいとき以外は撮らないようになりました。
どうしても、というのは「記憶」にも「記録」にも残しておきたい!!ってやつですね。
それに比べて、アナログな保存方法は「紙」に残す方法。
紙に何かを記す。この何かが、今で言うと「文字」。
それ以前は、文字ではなく言葉で伝達をしていたはず。
時代を経て現代。紙もあるのに、日本人は文字を書かなくなった。
パソコンやスマートフォンが普及したから。
必要性に欠けるから、文字の美しさに対する価値も変わってきた。

とはいいつつ、すべてがデジタルに移行することはないと思うので、どこかしらでやっぱり文字を書くという行為は残ると思うのです。
それでも、コラムの通り、今よりも必要性が減っているのは確かでしょうから、今後はキレイな文字を書けるということが貴重なスキルとして認められていくものと思われます。それは、いうなれば平安時代の「書」と同じような扱いなのかもしれません。

文字は矯正だ、と月曜担当カワノさんは言っていましたがそうだと思います。
ワタクシも大概、ひどい字を書きますが、これでも小学校の6年間は毛筆・硬筆を習っていました。
それも昔取った何ちゃらで、すっかり技術は錆びついております。
勿体ない。

キレイな字は一生モノの財産とかいう人もいるので、キレイな字を書くことができる自分でありたい。

キレイな字も一生ものだけど、歯も一生もの。
80歳になっても、自分の歯を20本以上残そうという運動「8020」があります。
自分の歯で噛める喜びというのは、失くした後に気が付くもの。

その歯で命を落とすことになってしまったら、何だかとってもやりきれないです。

歯が痛くなくても歯医者に定期的に行くというのは大事とよく言いますからね。
ワタクシも行けていませんので、反省です。

「人間は努力する限り悩むものだ」と言ったのは詩人ゲーテ。
悩むというか反省ひとしおなアラサーです。

ではまた来週。